Lifetime Valueで測る人的資本の最大化
このところ、企業人事の分野では「人的資本」という言葉を目にしない日はないほど大きなトレンドとなっています。2023年3月期の有価証券報告書からは人的資本と多様性に関する開示が義務付けられますが、対応の度合いは企業によってかなり差があり、人的資本の具体的なイメージや取組みの必要性について、いま一つ掴めていないという人事担当者も多いのではないでしょうか。
今回は、人的資本を視覚的にとらえることで、その重要性や、目指すべき方向性について解説していきます。
人的資本を視覚的にとらえる
人的資本とは何なのか。ものごとの概念を理解するには、似て非なるものとの比較を考えるとわかりすいです。人的資本=Human Capitalと対になる言葉に、人的資源=Human Resourcesというのがあります。HRと略して使われることも多くあります。
人的資源という言葉には、人材を資源ととらえて管理・活用するという意味が込められています。今あるものをどう効果的に使っていくか、という視点です。これに対して、人的資本という言葉には、人材を資本、すなわち自ら価値を生み出していくとともにそれ自身が成長していくものとらえ、投資することで価値を最大化していくという意味が込められています。
これを視覚的にイメージするために、生涯価値=Lifetime Valueという考え方を導入しましょう。これは元々マーケティングの世界で用いられていた用語で、1人、あるいは1社のお客様と取引を始めてから取引が終わるまでの間にもたらされる利益の総額のことを意味します。
上の図のように、横軸を取引開始から終了までの期間、縦軸を1期間あたりの利益とすると、その面積がLifetime Valueになります。1人、あるいは1社から得られる総利益を最大化するために、この面積を広げるための打ち手を考えていきます。
この考え方を人材に当てはめたのが従業員生涯価値=Employee Lifetime Valueです。ELTVと略されます。従業員1人1人について、横軸を採用から退職までの期間、縦軸を1期間あたりのアウトプット(成果)として、その面積がELTVになります。一般的には、採用時には低いところからスタートして徐々に高まっていき、退職とともにゼロになる、というカーブを描きます。
人的資本の最大化というのは、多様な人材に対してこのELTVを将来に向かって最大化していくことだととらえるとイメージしやすくなるのではないでしょうか。
人的資本の最大化に向けて~離職に着目して考える
ではなぜ人的資本がこれほど重要視されるようになったのでしょうか。特に日本が置かれている状況を踏まえて考えると、性別や年齢などにかかわらず1人1人が持っている知識・能力を磨き、引き出して、長く発揮してもらうことが非常に重要になってきています。なぜなら、労働力人口(特に若手)が減っていくなかで、1人1人の生涯価値を高めていかないことには、企業の価値も高められないからです。
そのためには、ELTVの面積を広げていく、つまり、上に伸ばすか、左右に広げていくことが必要になります。上に伸ばすというのは今発揮できる成果を大きくすることを意味し、左に広げる(立ち上がりを早くする)というのは成長を早めてより早い段階から成果を発揮してもらうこと、右に広げるというのは途中で離脱することなくキャリアの終盤になってもアウトプットを落とさずに長く活躍してもらうことになります。
そのために行うのが、教育・研修、働き方改革、エンゲージメント向上、タレントマネジメント、リスキリング、シニアの活躍推進といった各種人事施策になります。その中でも、最も重要な要素の1つになるのが離職率です。どんなに高い成果を発揮していても、あるいは、将来の期待がどんなに大きくても、その人材が退職して関係が切れてしまえば、その企業にとってのELTVはそこでゼロとなってしまいます。
ですから、いかに離職率をコントロールするかが重要になります。これは単に全体の離職率を下げるということではなく、ハイパフォーマーや将来の期待が大きい人材、そして企業として今後活用していきたい人材を明確に定義して、そうした人材の離職理由や背景を把握したうえで対策を打っていくことが大切になります。
人材の成長スピード(ELTVを左に広げること)を特に重視し、新陳代謝によって組織の活力を高く保っていくという方針をとるなら、組織の中で成熟して成長が鈍ってきた人材には退出を促し、新たな活躍のステージへの移行を支援することでELTVを大きくするという考え方もあるでしょう。しかし採用競争は今後さらに激しくなっていくことが予想されますから、就活生を含む求職者にとっての魅力をいかに高めるかが課題になります。
最近はアルムナイに注目する企業も増えてきています。退職したらそこで社員との関係は終わりということではなく、再雇用(ジョブリターン)のほか、協業や提携といった新たな形での関係を構築していくといった動きも出てきています。人的資本の観点からも、退職までの期間だけで考えるのではなく、その後の期間も含めたまさにLifetime Valueを最大化させていくという発想が求められるでしょう。
著者 : 向井洋平 (むかい ようへい)
クミタテル株式会社 代表取締役社長
1978年生まれ。京都大学理学部卒業後、大手生命保険会社を経て2004 年にIICパートナーズ入社。2020年7月、クミタテル株式会社設立とともに代表取締役に就任。大企業から中小企業まで、業種を問わず退職金制度や高年齢者雇用に関する数多くのコンサルティングを手掛ける。日本アクチュアリー会正会員・年金数理人、日本証券アナリスト協会検定会員、1級DCプランナー、2級FP技能士。「人事実務」「人事マネジメント」「エルダー」「企業年金」「金融ジャーナル」「東洋経済」等で執筆。著書として『確定拠出年金の基本と金融機関の対応』(経済法令研究会)ほか。