「老後 2,000 万円」に惑わされないために~金融審議会の報告書に示された行動指針を確かめる
金融庁の金融審議会市場ワーキング・グループがとりまとめた報告書「高齢社会における資産形成・管理」が思わぬ形で波紋を広げています。報告書が公表されたのは 6 月 3 日ですが、5 月 22 日に案が示された直後から、老後の生活資金の不足額として示された数字が独り歩きし、「年金の不足を補うには 2,000 万円の貯蓄が必要」、「公的年金制度の限界を政府自ら認めた」といった誤解を招く報道がなされています。
しかし本文をよく読めばわかるとおり、報告書は現在の公的年金制度や長寿化が進んでいる状況などを踏まえ、個々人が年金を含む自分自身の資産や収入の状況を把握し、それが、自らの望む生活水準に照らして足りないのであれば、就労の継続、支出の見直し、資産形成・運用といった「自助」の充実を行っていく必要があるという、当たり前のことを言っているに過ぎません。
2,000 万円という数字に惑わされることなく、令和の時代の高齢社会に対応していくためにはどのような行動が求められるのか。報告書の記載を引用しながら解説していきます。
各社の報道から垣間見える公的年金制度に対する理解度
今回の報告書に関しては、「2,000 万円」という金額と「自助の充実」が盛り込まれたことから、政府がこれまでの説明を翻し、公的年金だけでは生活できないことを認めたかのような報道が見られます。しかしそもそも 2,000 万円という金額は、今現在収入のほぼすべてを公的年金で賄っている、高齢夫婦無職世帯の平均的な収支から計算されたものです。この平均収支を前提に考えれば、引退時において一定の資産額を確保しておく必要性は今も昔も変わりません。
また強制的に徴収する保険料や税金を財源として給付を行う公的年金制度では、年金額の水準を国民の多くが必要だろうと考える、最低限の日常生活費の水準に設定するのが基本でしょう。それ以上の水準に設定すると、現役世代や企業の負担すべき保険料及び税金の負担が大きくなり過ぎるからです。したがって、自らが望む生活水準に引き上げる分については、各々の状況に応じて退職金や自助努力によってカバーしていくことが必要となります。
この点については、ファイナンシャルプランナーの山崎俊輔さんがコラム『人生 100 年時代に自助努力を、と国が示して怒っている人は、「一部」と「全部」の大違いが分かっていない』で分かりやすく示しているので、一読することをお勧めします。
日本に公的年金制度が発足してから今日まで、多くの高齢者が望む生活水準を公的年金だけでカバーできていた時代はありません。だからこそ、退職金には退職所得控除という税制優遇措置が設けられ、また、企業年金や個人型確定拠出年金 (iDeCo) にも税制優遇を設けることで、企業や個人に対して、公的年金に上乗せする引退後の生活資金の確保を促してきたわけです。今回の報告書に対する各種報道や反応を見ると、この点がまだまだ理解されていないと言わざるを得ません。
報告書に示された個々人に求められる行動
今回の報告書には確かに「2,000 万円」という金額は出てきますが、2,000 万円を貯蓄しなければならない、という説明はどこにも書かれていません。実際の記述は次のとおりです。
この金額はあくまで平均の不足額から導きだしたものであり、不足額は各々の収入・支出の状況やライフスタイル等によって大きく異なる。当然不足しない場合もありうるが、これまでより長く生きる以上、いずれにせよ今までより多くのお金が必要となり、長く生きることに応じて資産寿命を延ばすことが必要になってくるものと考えられる。重要なことは、長寿化の進展も踏まえて、年齢別、男女別の平均余命などを参考にしたうえで、老後の生活において公的年金以外で賄わなければいけない金額がどの程度になるか、考えてみることである。
そして、世帯構成や雇用慣行が変化し、保有資産や所得の状況にバラつきが見られるようになってきている中、個人に求められる行動を以下のように結論付けています。
標準的なモデルが空洞化しつつある以上、唯一の正解は存在せず、各人の置かれた状況やライフプランによって、取るべき行動は変わってくる。今後のライフプラン・マネープランを、遠い未来の話ではなく今現在において必要なこと、「自分ごと」として捉え、考えられるかが重要であり、これは早ければ早いほど望ましい。
つまり、「自助」の第一歩は 2,000 万円を目標に置くことではなく、どこに目標を置くべきなのかを各々が考えることにあります。
そのうえで、人生のステージに応じた資産の形成・管理における心構えを、以下のように整理しています
現役期
- ・「人生 100 年時代」においてこれまでよりも長く生きる人が多いことを前提に、老後の生活も満足できるものとなるよう、早い時期からの資産形成の有効性を認識する。
- ・生活資金やいざというときに備えた資金については元本の保証されている預貯金等により確保しつつ、将来に向けて少額からでも長期・積立・分散投資による資産形成を行う。
- ・自らにふさわしいライフプラン・マネープランを検討する (必要に応じ、信頼できるアドバイザー等を見つけて相談する)。
- ・金融サービス提供者が顧客側の利益を重視しているかという観点から、長期的に取引できる提供者を選ぶ。
リタイヤ前後期
- ・退職金がある場合、早期の情報収集と使途の検討及び退職金を踏まえたライフプラン・マネープランを再検討する。
- ・必要に応じ、収支の改善策を実行する (就労継続の検討や支出の見直し)。
- ・長い人生を見据えた、中長期的な資産運用の継続 (長期・積立・分散投資等) とその後の計画的な取崩しを実行する。
高齢期
- ・心身の衰えを見据えてマネープランを見直す (医療費、老人ホーム入居費等)。
- ・認知・判断能力の低下や喪失に備え、取引関係の簡素化など心身の衰えに応じた対応をしやすくする。また、金融面の本人意思を明確にしておき、自ら行動できなくなったとしても、他者のサポートにより、これまでと同様の金融サービスを利用しやすくしておく。
このうち退職金に関しては、その有無や金額水準が引退後の生活資金に大きな影響を及ぼすことになりますが、その一方で、報告書では『退職金の給付額を把握した時期について、約 3 割が「退職金を受け取るまで知らなかった」、約 2 割が「定年退職半年以内」と回答している。』と指摘されています。自助努力による目標水準を見極めるためには、より早い段階で将来の退職金見込み額を把握することが必要でしょう。
企業に求められる役割
報告書では、こうした点を踏まえた金融サービスのあり方についてまとめていますが、「これに加えて、行政機関や業界団体などによる種々の環境整備も劣らず重要である」とし、企業に求められる役割についても以下のように言及しています。
また、多くの者にとって退職金や年金は老後の資産の大きな柱であることから、金融リテラシー向上に向けた企業の取組みも重要である。
退職金がある場合には、大きな金額が資産運用に回りうることを踏まえると、退職金の使途の検討に十分な時間をかけることができることが望ましい。退職金がいくらになるかの見通しを出来る限り早い時期に雇用者から本人に通知することは社員の福利厚生の向上の面でも重要であり、各企業の積極的な取組みが望まれる。
金融リテラシーの向上における企業年金の役割も重要であり、適切なガバナンスの下で受益者本位で運用されることはもとより、その前提として運用状況や給付額について、より職員が把握しやすくなるよう各企業が取り組むことも望まれる。また、確定拠出型企業年金 (DC) では、事業主は確定給付型の企業年金のような運用の責任は負わないが、従業員に対する投資教育の義務などその役割は小さくない。事業主においては、より従業員一人ひとりの資産形成に資するような投資教育・継続教育を行うことや、従業員のリテラシーも踏まえつつ資産形成に資する運用の選択肢を用意することが求められる。従業員の金融リテラシーを高め、資産形成を支えていくという点では、DC に取り組んでいない企業についても、同じく企業に期待される役割は大きい。
従来より、定年前の従業員に対してライフプランセミナー等の機会を設ける企業は多くありましたが、今後はより若い世代に対しても金融リテラシーを高めるような取り組みが求められるでしょう。実際、従業員の生活水準を高めることは、生産性の向上、ひいては企業価値の向上に不可欠であるという考え方のもと、DC を実施しているかどうかにかかわらず、若手を含めた従業員に対してマネープランセミナー等の機会を設ける企業も現れてきています。
今回の報告書の趣旨を正しく理解することは、個人のみならず、企業の人事・年金担当者の立場からも有益であると考えます。テレビや新聞、Web の記事 (これも含めてですが) を鵜呑みすることなく、報告書そのものに目を通してみてはいかがでしょうか。
金融審議会 「市場ワーキング・グループ」報告書 の公表について
※別紙1が報告書の本文
著者 : 向井洋平 (むかい ようへい)
株式会社IICパートナーズ 常務取締役
日本アクチュアリー会正会員・年金数理人。京都大学理学部卒。大手生命保険会社を経て、2004 年、IICパートナーズへ入社。アクチュアリーとして退職給付会計や退職金・年金制度コンサルティング、年金資産運用コンサルティングをおこなう。2012 年、常務取締役に就任。著書として『金融機関のための改正確定拠出年金Q&A(第2版)』 (経済法令研究会/ 2018 年 10 月刊) がある。2016 年から退職金・企業年金についてのブログ『社員に信頼される退職金・企業年金のつくり方』を運営。
出口 (イグジット) を見据えたシニア雇用体制の確立をしましょう
労働力人口の減少と高齢化が同時進行する中、雇用の入口にあたる採用、入社後の人材育成・開発に加え、出口 (イグジット) をどうマネジメントしていくかが、多くの企業にとっての課題となりつつあります。特に、バブル入社世代が続々と 60 歳を迎える 2020 年代後半に向けて、シニアの雇用をどう継続し、戦力として活用していくのか、あるいはいかに人材の代謝を促進するのか、速やかに自社における方針を策定し、施策を実行していくことが求められます。多くの日本企業における共通課題であるイグジットマネジメントの巧拙が、今後の企業の競争力を左右するといっても過言ではありません。
シニア社員を「遊休人員化」させることなく「出口」へと導くイグジットマネジメントを進めるために、まずは現状分析をおすすめします。
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