「年収の壁」ならぬ「年収の段差」のシンプルな解消策とは?~労働力と将来の生活安定の確保ために~
「年収の壁」ならぬ「年収の段差」とは
最近、「年収の壁」という言葉を目にする機会が増えています。この「年収の壁」があるせいで、パートやアルバイトなどで働いている人が、本当はもっと働けるのに収入を抑えるために働く時間を調整してしまっているといわれています。
どういうことかというと、106万円とか130万円とか、ある一定の年収までは年金や健康保険の保険料が免除されているのに、それを超えると保険料の負担が発生して手取りの収入が減ってしまうので、それを避けるために勤務日数や時間を調整している、ということです。
横軸を保険料を差し引く前の額面の収入、縦軸を保険料を差し引いた後の手取りの収入として図解すると、額面収入が106万円に達したところで手取り収入が一旦減ってしまい、その前の水準を超えるには額面年収を126万円くらいにまで増やさなくてはなりません(「106万円の壁」のケース)。
ただこれを「壁」と表現するのは見た目にもそぐわないですね。実際のところ、せいぜい「段差」ではないかと指摘する声もあり、そちらのほうがしっくりくるためここでは年収の「段差」ということにします。
なぜ「段差」が生じるのか
このような段差ができてしまう元々の原因は、日本の公的年金制度に加入する人(正確には「被保険者」)が1号、2号、3号の3種類に分かれており、それぞれ保険料の負担方法や年金額の計算方法が異なっていることにあります。
大まかにいうと、第1号被保険者は自営業者やフリーランス、第2号被保険者は会社員や公務員、第3号被保険者は専業主婦・夫という区分けになります。1号は一定額の国民年金保険料を納め、一定額の基礎年金を受け取ることができます。2号は収入に比例した厚生年金保険料を納め、一定額の基礎年金にプラスして収入(累計額)に比例した厚生年金を受け取ることができます。
そして3号は、配偶者の扶養に入っているため自分では保険料を納めず、配偶者が納めている厚生年金保険料に自分の国民年金保険料も含まれる扱いとなり、一定額の基礎年金を受け取ることができます。
このような整理になるのですが、この制度の骨格ができた頃からすると個人の働き方やライフコースは非常に多様化しており、1号、2号、3号の「はざま」にいる人たちが非常に増えてきました。それで106万円とか130万円の段差が問題となっているわけです。
「106万円の段差」について
2種類ある段差のうち、106万円のほうは従業員数100人超の企業で週20時間以上働いており、配偶者が第2号被保険者であるケースで生じます。圧倒的に多いのはパートタイマーで働く主婦の方です。この場合、賃金の月額が8.8万円未満、年収換算でおよそ106万円未満であれば、配偶者の扶養に入って第3号被保険者となり、自分で保険料を負担する必要はありません。その代わり、自分の厚生年金を受け取ることもできません。
これが8.8万円以上、年収換算でおよそ106万円以上になると、配偶者の扶養から外れて第2号被保険者になるため、自分で保険料を負担する代わりに自分の厚生年金を受け取ることができるようになります。
ところで、同じような働き方で年収106万円未満の人たちの中には、独身だったり配偶者が自営業だったりで扶養に入っていない人もいます。この場合は年収106万円未満でも3号ではなく1号になりますから、一定額の国民年金保険料・健康保険料を自分で納めなければなりません。
ですので、年収が106万円以上になったからといって急に負担が増えることはなく、むしろ負担は減る方向になります。なぜかというと、第2号被保険者の保険料は労使折半、つまり半分を会社が負担するためです。
手続き上は本人負担分も給与天引きで会社がまとめて納めるため、会社からの支給額自体は減りますが、そこから自分で保険料を納める必要はなくなります。したがって、最終的な手取り収入額は増えることになります。第1号被保険者にとって年収の段差を乗り越えるのは、負担すべき保険料を減らしながら厚生年金も受け取れるようになるというメリットしかありません。
「130万円の段差」について
次に130万円の段差ですが、こちらは従業員数100人以下の企業で、所定労働時間がフルタイム勤務者の3/4未満、ですから概ね週30時間未満で働いていて、配偶者が第2号被保険者であるケースで生じます。
働き方が同じなのに勤めている会社の規模で扱いが違うのはおかしな話ですが、前回の年金制度改正の際に、政治的な調整の結果、100人以下の企業で働く人が取り残される形になりました。なお、2024年10月からは、企業規模による境目が100人超/100人以下から50人超/50人以下に引き下げられます(50人超で働く人は「106万円の段差」の対象に移ります)。
こちらのケースでは、基本的に年収が130万円未満であれば配偶者の扶養に入って第3号被保険者となり、自ら保険料を負担する必要はありません。ところが年収が130万円以上になると扶養から外れて第1号被保険者となり、自分で国民年金と国民健康保険の保険料を納めなければなりません。
従業員100人超(2024年10月以降は50人超)の企業では、週20時間以上の勤務で年収の段差を越えることで第2号被保険者になれますが、従業員100人以下の企業では週30時間以上働かないと第2号被保険者にはなれない仕組みになっています。130万円の段差を越えても、負担が増えるだけで受け取れる年金は増えないので本人に全くメリットはありません。
仮に時給がほぼ最低賃金の1,000円だとしても、年間50週、週に26時間働くと年収は130万円に到達しますから、本人にとってはそこまでいかないように調整するか、それとも働く時間を週30時間以上に増やして第2号被保険者になるか、という選択になるでしょう。
なお、同様の働き方で、独身などでもともと配偶者の扶養に入っていない場合は年収に関わらず第1号被保険者となるため、段差は全く生じないことになります。
「年収の段差」のシンプルな解消策
このように「年収の段差」が生じる仕組みや条件については非常に複雑に感じられたかもしれませんが、この段差に対して年金制度をどう改正すべきかという答えは非常にシンプルです。段差の位置をできるだけ左へ、つまり年収水準の低い方にもって行っていきます。そして段差の右は企業規模や働き方によらず第2号被保険者となるようにします。これによって段差は自ずと小さくなります。
なぜそうすべきかという理由を2つ説明します。1つは労働力の確保です。今世の中は労働力不足です。そして人口減少と少子化によって、その不足はこれから拡大していきます。働き手がいなくなれば、お金があってもモノやサービスを購入することができなくなります。
ですから「年収の段差」のように働く意欲を削いでしまうような仕組みは解消しなければなりません。段差の位置が左に寄って、パートであっても第2号被保険者として厚生年金に入ることが当たり前になれば、段差を気にせず働けるようになります。
もう1つの理由は自分の年金の確保です。3号や1号の被保険者はそのままだと基礎年金しか受け取ることができません。基礎年金は満額でも月6.6万円程度にしかなりません。3号の人も配偶者に頼るのはリスクが大きいでしょう。少しでも自分の厚生年金を積み上げていくことが、将来の生活の安定につながります。
適用拡大を阻む「壁」を打ち破れるか
このように第2号被保険者となる範囲を広げていくことを「適用拡大」といい、年金制度について議論している国の社会保障審議会では、適用拡大を進めていくべきだというのはほぼ共通認識になっています。
ただこれを実行しようとすると、一時的に痛みを伴うことになります。今3号となっているパートの人は2号になることで手取りが減ってしまいますし、企業にも2号の従業員が増えることで新たな保険料の負担が発生します。痛みを伴う政策は不人気であり、政治は避けようとします。マスコミも痛みのほうに注目することで世論もそちらに流れがちです。これらはまさに適用拡大を阻む「壁」だといえます。
もちろん、いきなり手取りが減ってしまったら生活に影響が出たり、保険料負担が増えたら経営に響くということはあるでしょうから、周知期間を置いたり、働きたくても働けない人への支援策を設けたりといった配慮は必要かもしれません。それでも大事なのは、あるべき姿を明確に定めたうえで、できるだけ早くかつスムーズにそこに移行していくにはどうすべきかを考えることでしょう。
パートタイマーが多くを占める業界では企業負担の増加につながる適用拡大に否定的な考えが強いようですが、中には正規雇用の比率を高めることで競争力を高めている食品スーパーもあります。また、経済同友会のように適用拡大を正面から打ち出している経営者団体もあります。
【参考】
いわゆる『年収の壁』問題への対応について―支援強化パッケージの評価と社会保険制度の中長期的な改革の方向性―|経済同友会
上記の意見書にもあるとおり、今月には当面の対策として「年収の壁・支援強化パッケージ」が厚生労働省から発表されましたが、これは2025年に予定されている次回の年金制度改正までのつなぎに過ぎません。適用拡大を阻む「壁」を打ち破れるか、今後の議論に注目したいと思います。
著者 : 向井洋平 (むかい ようへい)
クミタテル株式会社 代表取締役社長
1978年生まれ。京都大学理学部卒業後、大手生命保険会社を経て2004 年にIICパートナーズ入社。2020年7月、クミタテル株式会社設立とともに代表取締役に就任。大企業から中小企業まで、業種を問わず退職金制度や高年齢者雇用に関する数多くのコンサルティングを手掛ける。日本アクチュアリー会正会員・年金数理人、日本証券アナリスト協会検定会員、1級DCプランナー、2級FP技能士。「人事実務」「人事マネジメント」「エルダー」「企業年金」「金融ジャーナル」「東洋経済」等で執筆。著書として『確定拠出年金の基本と金融機関の対応』(経済法令研究会)ほか。